今回は、『機動戦士ガンダムΖΖ』の総括感想記事です。
『Ζガンダム』の続編として制作され、1993年に『Vガンダム』が放送されるまでは、「ガンダムシリーズ」最後のTV作品となっていた本作。前2作と趣を異にすることから、「『Ζ』までは観るけどこれは観ない」とされてしまうこともある本作ですが、私としては、本作こそ「ガンダムシリーズ」の1つの終着点であり、一種の完結編とも言える作品ではないかと感じました。前評判だけで観ないとするのは、絶対にもったいない作品だと思いますね。
なお、前回(第46・47話[終])の感想記事は↓コチラです。
bongore-asterisk.hatenablog.jp
『ΖΖ』が、作品として訴えたかったこと。それは、この作品のキャッチコピーでもあった「子供は皆ニュータイプ!」にも関わってくるものだと、私は思います。
『ΖΖ』は、途中で路線変更がなされるものの、そこに描かれていたのは、「自分たちとしてはよかれと思ってるけど、子供から見れば身勝手に見える大人たち」と、「大人から見れば何も考えず無邪気に見えるけど、実は自分なりに考えて現実と向き合い抗おうとする子供たち」の対立&対決でした。ガンダム・チーム(ジュドーたち)とネオ・ジオン(ハマーンたち)、そしてエゥーゴ内部でのガンダム・チームとブライトたち大人。どちらも規模の大小に差はあれど、構図は同じです。
そして、それら対決の結果はどうなったか。ガンダム・チームはハマーンに勝利し、ブライトからも(戦局の関係もあったとはいえ)後半からは独立して動くことが多くなります。
どちらも、子供側であるジュドーたちが、勝利や権利を勝ち取っているこの構図。ジュドーが主人公なので当たり前と言えばそうですが、ここにこそ『ΖΖ』のメッセージがこめられていると感じます。
そのメッセージは、「無限大の可能性を持つ子供たちなら、より良い未来を切り開けるのではないか」ということです。
ベタなものではありますが、『ガンダム』や『Ζ』で、大人に振り回され、戦果を挙げるも同じくらい何かを犠牲にしてきたアムロやカミーユのことを考えれば、これがいかに「ガンダムシリーズ」において重要な発想だったかがお分かりいただけるかと思います。『ΖΖ』は、シリーズで初めて、人類とその未来に対して希望を感じさせる、そして制作側が持っているように思えるメッセージを、ストーリーを通して打ち出してくれているのです。
これが制作陣の考え方の変化なのか、あるいは色々なものに左右された結果(『逆襲のシャア』制作決定に伴うストーリー変更等)なのかは、私にはわかりません。ただ―、『ガンダム』から続いてきた世界観やそのストーリーの終着点が、こうした希望ある結末だったということは、もっと評価されるべき、そして注目されるべきなんじゃないかなと思いますね。
なお、話題は変わりますが、『ΖΖ』にも多くのモビルスーツが登場しました。前作から続投しているガンダムMk-Ⅱを除いて、私が好みだったモビルスーツは、うーん…意外にガルスJかな。初期のマシュマーのキャラも、なんだかんだでけっこう好きだったよ。
『Ζ』最終回で生死不明となった、シャア・アズナブル。『ΖΖ』で一切その姿を見せなかった彼は、密かに新たなるネオ・ジオンを組織しており、宇宙世紀0093、人類に挑戦を開始した。彼を迎え撃つのは―アムロしかいない!
今…宿命のライバル:アムロ・レイ、シャア・アズナブル。炎の最終対決の時が来た!
「ガンダム伝説」最高最大の興奮を孕んで、ドラマは、とてつもない結末を迎える。
…というわけで次回は、1988年3月公開の映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の感想記事となります。お楽しみに!
キミは―《ガンダム伝説》衝撃のクライマックスを観る―!
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☆ガンプラ Pick Up!
『ガンダムΖΖ』に登場したモビルスーツのガンプラの一部を、ピックアップしてみよう!
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